アーサー・コナン・ドイルといえば、「シャーロックホームズ」の原作者として幅広い世代、そして世界中で知られている作家名であると認識している方がほとんどだと思います。
しかし、昨今は「名探偵コナン」のコナンの名前の由来であったり、コナンがホームズ好きであることから、それ経由で知ったという人もいるかもしれませんね。
名前は知っているけれど読んだことがないという人もいるでしょう。
「憂国のモリアーティ」からコナン・ドイルを知ったという人もいるでしょう。
今では彼の作品に感銘を受け、そこから発展していく作品も多く存在しています。
ミステリと聞くと敬遠してしまう、苦手意識が先行してしまう方も少なくありません。
しかし、コナン・ドイルという人物を知ったら、その先入観も薄れるのではないでしょうか。
アーサー・コナン・ドイルとは?
アーサー・コナン・ドイルは1859年生まれ1930年71歳没、イギリス出身の小説家でもあり、医師でもありました。
代表作はシャーロックホームズシリーズで、こちらの知名度により推理小説家であると思われがちですが、歴史やSF小説も書かれる多才な作家でもあります。
もともとは大卒後船医に就き、その空いた時間を利用しての執筆でした。
完全に副業という位置づけであった執筆業がメインになっていくきっかけは歴史小説の「マイカ・クラーク」でした。
推理小説ではなかったのですね!
「マイカ・クラーク」の評判がよかったため、アメリカの出版社からシャーロックホームズの2作目の依頼を受けます、これが「四つの署名」です。
のちのち、短編読み切りのシャーロックホームズシリーズが大ヒットしていきます。
ところが晩年になっていくと心霊布教にのめりこんでいきます。
心臓発作の頻度も増え養生を勧められますが従いませんでした。
アーサー・コナン・ドイルの名言①
「人々は自分達が理解しないことを軽蔑する」
「People spurn that one doesn’t understand.」
自分が理しないではなくしたくないことといえばもっとわかりやすいでしょう。
また少数意見といういい方もできますね。
筆者も常日頃からよく思うことです。
ことこの日本ではその傾向が強いと感じます。
個性を伸ばす教育を掲げていても実際は違いますよね。
他国での個性を伸ばすは相手を知ろう、受け入れようという印象があるのに対し、日本では長い物には巻かれろが定着し、上辺だけの個性を伸ばすにしか思えません。
これを言ったら軽蔑されるかもしれないという思いや意見をお持ちであれば、それこそが今の日本を象徴しているのではないでしょうか。
アーサー・コナン・ドイルの名言②
「私は仕事で疲れたという記憶はまったくない。しかし、何もしないでいると、くたくたに疲れきってしまう」
「I completely have no memory tired with work.But when nothing is being done, I tire in bad shape.」
これこそ理想の働き方かと思います。
疲れるということは心情的にも肉体的にも許容範囲を超えていることです。
しかし、どんなに嫌でたまらない仕事であっても、職場で「おまえはなにもするな」と言われなにも仕事を与えられずただ終業まで時間を潰さなくてはならなくなった場合、これは嫌な仕事を嫌々するよりも苦痛でより疲れてしまうのではないでしょうか。
コナン・ドイルのいう何もしないという言葉は暇を持て余している時間という解釈もします。
時間を持て余している時の時の経つのはとても長く感じますよね。
そしてとても疲れたと感じるのではないでしょうか。
もし同じ疲れるを味あわなくてはならないとしたら、どちらがいいでしょうか。
アーサー・コナン・ドイルの名言③
「情報を収集する前に思索をめぐらすのは重大な間違いである」
「Before collecting information, it’s an important mistake to turn a consideration.」
正しく情報収集をし知識として自分に取り入れるのであれば、事前にあれこれと思索するのはよくないですよね。
それは正しく得ることの妨げになるからです。
こと現代であればコナン・ドイルのいた時代よりも多種多様な情報が飛び交い、少しでも知りたいと思えば手軽に得ることができます。
しかし、それは本当に正しい情報でしょうか。
ネット社会と言われる昨今でこそ、思索は危険であると言えます。
自分の思索と違っていた、または同じだったとそこで決定にしてはいけないのではないでしょうか。
アーサー・コナン・ドイルの名言④
「想像力がなければ、怖いものはない」
「When I’m fanciless, there is nothing fearfulness.」
コナン・ドイルは心霊に夢中になっていくのですが、そもそも心霊は目に見えるものなのでしょうか。
見えると断言する方もいますが多くの方には見えないものです。
しかし見えない人にでも心霊とはどういうものかはわかりますよね。
ひとつの情報から想像を膨らまし、その結果、心霊とは怖いものと思ってしまえばそれが定着してしまいます。
もし、現実的主義で想像なんてしたってなんの役にも立たない、そういう考えであったらどうでしょうか。
目に見えないものを怖いと思うでしょうか。
またまだ起きてもいない未来に不安を抱くでしょうか。
想像力があるからこその恐怖であり不安でもあるのです。
けれど、想像力がまったくないというのもつまらないですよね。
非現実的なことに思いを馳せるのは夢であり希望でもあるのなら、個人的には想像力のない人より豊富な人の方が魅力的であると思います。
アーサー・コナン・ドイルの名言⑤
「人生は大きな鎖のようなものであるから、その本質を知ろうとするには、鎖の一部分さえ知ればいいのである」
「Even a small group of a chain should know to try to know the kind because a life is the one like a big chain.」
人生とはひとつひとつ経験の積み重ね、それが1本の道に繋がっていると考えるのですが、コナン・ドイルは鎖に例えています。
本質を知るには、道の終点を知ればいいと筆者は思っています。
彼は鎖の一部分とだけいい、その箇所は明言していません。
道半ばなのか、出発地点なのか、それはわかりません。
人生の本質を知る、これはなかなか難しい定義ではないでしょうか。
まとめ
作家でもあり医師でもあったコナン・ドイルの最期が、まさかの……です。
医師の言葉に従わず心霊に夢中になっていたとは!
彼が医師であったころ、きっと自分に言われたことと同じことを言っていたと思われます。
こういうのを見聞きすると、やはり人は病やケガを体験してみないと患者の本当の気持ちはわからない……ですよね。
先のない命なら好きなことをしていたいという気持ち、医師としては少しでも長く生きられる可能性があるならそれを助言するのは当然でしょう。
難しいですね。
彼の選択の是非については意見がわかれそうですが、もし自分ならと考えるなら、やはり彼と同じように好きなことに没頭して医師の言葉は聞き流してしまうかもしれません。