安政の大獄で若くして刑死した橋本佐内をご存知ですか?
彼が15歳のときに書いた「啓発録」は、後の立志式の元にもなり、人生の教訓とも言える内容が多い為、道徳などの教科書でも紹介されています。
生涯を通して学問武道に励んだ橋本佐内の名言からは、真っ直ぐで常に前向きに生きる姿勢が感じられます。
今回は、橋本佐内の名言集が心に響く!!~あなたへのメッセージ~の紹介です。
橋本佐内とは?
橋本佐内は、1834年4月19日、越前福井藩の奥医師(外科医)である橋本長綱の長男として産まれ、母は小林静境の娘です。
子供の頃から頭脳が優れており福井藩の「神童」、或いは「池中の蛟竜」と呼ばれたほど橋本佐内の語学力は天才レベルであり、緒方洪庵先生の学び舎(適塾)では吉田松陰、西郷隆盛、藤田東湖等と交流があります。
また、15歳で書いたとされる「啓発録」は現在も読まれています。
そんな優れた頭脳を松平春嶽にかわれ、側近として幕府に深く関わっていくことになりますが、1859年の井伊直弼によって安政の大獄が始まり、将軍継嗣問題に介入したことで斬首刑となり1859年11月1日、26歳の若さで亡くなっています。
そんな人生の大半を学問武道として励んだ橋本佐内の言葉には学ぶ事の意味を教えてくれる内容が多くあります。
橋本佐内の名言①
急流中底の柱、即ち是れ大丈夫の心。
これは、橋本佐内が少年時代に自分が愛用していた書箱の蓋に書いたものであり、激流の中でも流れない柱のように、シャキッと立ち揺るぎ無い信念を持つ事が大切だと言う事です。
勉学に励んだ橋本佐内に因み、合格祈願としてお守りもあり、受験生たちには心の支えにもなっているようです。
確かに、現在の世は誘惑に負けてしまいそうになる事は多々ある為、信念を持つ事は大切ですよね。
橋本佐内の名言②
何事も他人に負けてはならないとする気持ちと、決めた目的の下に一刻も油断なく、心の緊張を失わない事が大事だ。
人に負けないと言う強い心が無いと自分の信念も崩れてしまいがちになりますよね。
他人と比べる事は良くないとされていますが、ライバルを持ち負けまいとする事は切磋琢磨によって自分の能力も伸びるので、同期のライバルは特に必要だと思います。
また、その気持ちを持ち続ける事で精神的にも強くなれるので、緊張感を持つ事は大切ですね。
橋本佐内の名言③
誰にでも何かの仕事に適する素質がある。
世の中が必要とするものは多く、自分が役に立てる事が必ずある。
橋本佐内は、藩医をしていた医者の家に生まれましたが、そのことを嘆いていたと言う事を15歳の時に書いた啓発録の中に記していたようです。
ただ、適塾では蘭学や医学、そして科学と様々な分野を学ぶため、どの分野にも精通するものですし、医学などは自分で実際に試したと言うエピソードもあります。
そのエピソードとは、適塾のリーダーでもあった福沢諭吉が、毎日夜になるとこっそり抜け出す橋本佐内に対して「女でもできたのでは・・・」と思い、跡をつけたところ、一人ひとりの放浪者を看病したり、診察している姿をみつけたと言います。
橋本佐内は見つかった事に対して、「適塾で学んだ事を私は実際に試してみたかっただけです。学んだ事が今生きている人に役立たなければそんな学問は死に学であって実学ではありません」と言ったと言います。
この時、福沢諭吉は適塾のリーダーとして、卑しい考えを持った自分を恥じたと言う事です。
橋本佐内が若くして素晴らしい考えを持った人物だと言う事がよく分かるエピソードでもありますよね。
名言から少し反れてしまいましたが、確かにどんな人にでも自分に合う職種はあります。
しかし、どんな職種でも人の為、世の中の為になるのであれば一生懸命に尽くす事は大切です。
そんな事を教えてくれるメッセージでもあります。
橋本佐内の名言④
幼稚な心を取り去らなければならない。
自己の修行を怠り、父母への依頼心を持つなどは、幼稚な心である。
これは啓発録の中に記された中の一つですが、目先の遊びや楽しい事、怠惰な心や親への甘えは学問の上達を妨げ、武士としての誇りも持てないので取り去らなければならないと言う事を伝えています。
この時代の人間は自分に厳しい人が多く、これぞ武士の心得と言うことにもなりますが、確かに甘えた考えは全てにおいて堕落させてしまいますよね。
これは受験生の皆さんには教訓になるのではないでしょうか。
橋本佐内の名言⑤
二十六年、夢の如く過ぐ。
平昔を顧思すれば感ますます多し。
天祥の大節、嘗て心折す。
土室なほ吟ず、正気の歌。
これは、橋本佐内の辞世の句であり、江戸幕府の将軍継嗣問題に介入したことで取り調べを受け、伝馬町の牢獄に入れられ一度は遠島の刑を言い渡されます。
しかし、「自分の行動は藩命によるもの」と主張したことが幕府の権威を取り戻そうと強権を振るう井伊直弼の反発を招くことになり、遠島の刑から死罪になり、その時、その無念を辞世の句にしたためたと言われています。
現代文におきかえると以下のようになります。
「26歳の生涯が夢のように過ぎていった。
昔の事を思い出すとその思いはますます大きくなっていく。
かつての文天祥の思いに感心したものであるが、自分も彼と同じく土牢の中にあって正気の歌を詠うのだ。」
入獄から5日後の1859年に江戸伝馬町の牢屋敷きで頼三樹三郎と共に斬首となりました。
若干26歳と言う早すぎる死に適塾での同期生、また西郷隆盛なども悲しみ惜しんだと言われています。
ただ君主である松平春嶽に忠実に動いただけで死罪になるとはなんと無念だったことでしょうね。
しかし、どんなに正直な事でも上に背くことは武士からぬ態度とされ当時は受け入れられなかったのでしょうね。
現代では考えられない事ですが、こんな優秀な人材をこれだけの理由で失うと言う事は残念でなりません。
その20日後には同じ獄舎内にいた吉田松陰も斬首されています。
まとめ
日本の国の宝とも言える優秀な人材がこのような理由から死罪になる事は残念な事です。
もし、橋本佐内や松田松陰らが生きていたらもっと世の中は違っていたのではないかと思われますが、皆さまはどのように感じられたでしょうか。
以上、橋本佐内の名言集が心に響く!!~あなたへのメッセージ~の紹介でした。