土方歳三 名言 燃えよ剣



幕末の動乱期を最後まで剣に生き、戦い続けた土方歳三の名を知らない人はいないと思います。

また、近藤勇と共に結成した新撰組の中で鬼の副長としても知られており、その土方歳三の生涯は、忠義の限りを尽くして北の大地に散ってしまったと言う悲しい運命でもあります。


そんな土方歳三は幕末悲劇のヒーローとしてメディアに取りざたされることも多く、数々の小説の主人公にもなり、当時語られた言葉も多く残されています。

中でも司馬遼太郎が書いた「燃えよ剣」では、土方歳三が語ったとされる名言などが紹介されています。


今回は、土方歳三の名言が心に響く~『燃えよ剣』~のセリフも紹介します。

土方歳三とは?

土方歳三 名言 燃えよ剣



新撰組、鬼の副長と呼ばれた土方歳三は、天保6年(1835年)、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)に家伝薬を副業とする裕福な農家の末っ子として産まれ、6歳の時に母を結核で亡くした後、次男夫婦に育てられる事になります。


その後、様々な奉公をするも顔に似合わず乱暴な性格上から長続きせず、結局家伝の秘薬の行商をする事になります。


しかし、剣を持つ武士に憧れを持ち続けていた土方は、25歳で殺人剣と呼ばれる実践できる天然理心流に入門する事になり、近藤勇と沖田総司との出会いによって新撰組を結成することになります。


そして幼少時から「バラガキ」と呼ばれた性格から鬼の副長と呼ばれるまでなり、後に新撰組も幕府も崩壊していく中、土方歳三は最後まで武士の心を持ち
続け戦い続ける事になるわけです。


その生涯は悲しくもあり35歳の若さで北海道の五稜郭外に潔く散っていった生き方は、現代も人々の心をつかんで離さないようです。

そんな土方の遺した名言は、土方が最後に戦ったとされる函館戦争の最中に語られたものが多くあり、また司馬遼太郎の「燃えよ剣」の中でも名台詞として紹介されています。

土方歳三の名言①

我が兵は限りあるも、官軍は限りなし。
一旦の勝ち有りといえども、その後には必ず敗れんこと、ひ夫すらこれを知れり。
然るに、吾れ任ぜられて、若し敗れるようなことがあれば、則ち武夫の恥なり。
身を以てこれに殉ずるのみ。

これは、最後の戦となった函館戦争に旧幕府軍の一員として参加した時に言った言葉ですが、つまり、一時的な勝利はあっても兵の数からして最終的には負ける事はみえているが、戦の指揮を任されているのに敗北することは武士としても恥である。


ならば、死ぬまで戦い続けるだけだ・・・と言う内容であり、勝ち目のない戦いと分かっていても最後まで武士として戦い続ける事を決意した瞬間かもしれませんね。


武士としてこの時代に生きた人間は、最後まで武士としての生き方を貫き通し、同時に常に覚悟をもって生きていたとも言えます。

そんな潔い生き方は恰好良すぎますよね。益々、土方ファンが増えそうですね。

土方歳三の名言②

法 司シバ 命ニ愚痴ヌド 特タズ 義 暴ラ 没義ク

これは官軍が天皇を抱え込み土方や旧幕軍が官軍に「賊軍」とされていた事を知っていた土方が函館戦争の終局を感じとり、既に敗北は避けられないと悟った時に言った言葉だと言われています。

内容を現代版におきかえると、


“法が許すのであれば、命令に愚痴はない。しかし、既に大義がない、暴挙だ。

大義のない戦だ“


戦で敗ける事よりもっと辛くて悔しいと言う気持ちが現れている内容ともとれ、思わず土方の胸の内ににあった愚痴がこぼれたとも言えますよね。


戦に勝つ為に指揮をとる土方が敗北などは考えない事は当たり前ですが、その勝つ為の戦に意味がない事を知った時の悔しさは無念だったと思います。

いつの世にも言えることですが、上に立つ者たちの暴挙は無くなることなどないのでしょうね。

土方歳三の名言③

目的は単純であるべきである。
思想は単純であるべきである。

これは、「燃えよ剣」の中で名台詞として紹介されてるものです。


土方歳三は幼少のころから暴れん坊で、バラガキと呼ばれていました。


要するに触ると痛い棘のような少年と言う事から、かなりの暴れん坊だった事は確かであり、またこればかりではなく頭の切れも良く、組織をまとめる事に長けていたとも言われています。


これは、後に新撰組の局長でもある近藤勇を支えながら局内部を厳しく取りまとめる鬼の副長として統括をしたことは有名であり、新撰組も幕府も全てが崩壊していく中で土方は武士として最後まで戦い続けた事も理解できそうです。

土方歳三の名言④

たとえ身は蝦夷の島根に朽つるとも魂は東(あずま)の君やまもらむ。

土方はあまり句や和歌などを得意としていなかったと言われていますが、辞世の句と呼ばれる和歌がいくつかあります。


その中でもこの句は、自分の命がいつ果てても悔いはないと言う覚悟が伝わり、たとえこの身が蝦夷の果てに散ったとしても魂は東にあり、常に将軍を守っている・・・と言う事を表しているのかもしれませんね。

それとも、家族や一人の女性を思って詠んだのでしょうか・・・?


今となっては分かりませんが、この一首に自分の遺髪や写真、刀を添え、「自分の身に何かあったら日野に届けよ」と小生である市村鉄之助に託したと言います。


武士として忠義をつくし、覚悟を以て生きる事は、悲しく切なさも感じますが、潔さからロマンや男らしさも感じますよね。

土方歳三の名言⑤

鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉あすは屍の上に照るかと。

これは函館戦争最後の戦いの前に詠まれた一首であり、自分の死を覚悟した内容でもあり、悲しくもなります。


そして5月10日、一人になっても最後まで戦い続けた土方は、函館戦争中に五稜郭外で流れ弾に当たり35歳の若さで戦死しました。

土方が最期に残したと言われるたった一枚の写真からは、レンズを見る事を避け常に緊張感の中で生きてきた土方歳三の生き様が伝わってくるようでもあります。


幕末の動乱期を武士として忠義をつくし、ひたすら走り続けてきた土方歳三の名前を私達は忘れる事はないでしょう。

まとめ

土方歳三 名言 燃えよ剣



幕末の悲劇のヒーローとして女性に大人気の新撰組は、実は人斬りとして当時は恐れられた集団でした。


しかし、彼らの中では天保年間あたりから秩序の崩壊が始まった世を立て直す特殊部隊として将軍家の為に働きたいと願っていた者もおり、それが近藤勇や土方歳三、そして沖田総司らが率いる新撰組です。

彼らは幕府に従い忠義をつくして戦い続けたのですが、最後は賊軍とされいわば使い捨て状態のような最後を迎える事になります。


特に土方歳三は、武士として最期まで誇りを持ち最後の最後まで戦い続け北の大地に散った事は今も尚人々の心に焼き付いていると言えますよね。


以上、土方歳三の名言が心に響く~『燃えよ剣』のセリフも紹介〜でした。


よかったらこちらの記事もどうぞ^^